亡き父を偲んで
6月27日は私の父親の命日で、今年33回忌の法要を迎えることになりました。広島の実家にお寺さんに来ていただき、母親と姉と3人だけでの法要となりましたが、無事終えることができホッとしているところです。亡き父も喜んでくれたのではないでしょうか。
毎年、父親の命日を迎える6月下旬になると必ず思い起こすことがあります。父親が亡くなったのは1993年。第14回日本インターナショナルダンス選手権大会で、私は初めて日本のチャンピオンの座につくことができましたが、それがまさに、その年の6月だったのです。
その後の地方インターシリーズを終え、日本インター優勝杯を持って、病床に臥している父親の元へ急ぎました。すでに意識がない状態でしたが、優勝杯を見せながら優勝の報告をすると、瞑ったままの目から一筋の涙が流れたのを今でもはっきりと覚えています。喋ることも目を開けることもない状態でも、意識はまだあったのかもしれません。父はその報告をずっと待ってくれていたのです。そして私にとってそれは、父親との約束を果たすことができた安堵の瞬間でもあったのです。
私がダンスを始めたのは関西学院大学に入学し、同好会であるKG舞踏研究会に入会してからのことです。3回生のときに関西学連の全関西戦で優勝し、4回生になると、西部総局登録のアマチュア選手として初めて日本インターナショナル選手権に出場。準決勝7位にランクされたこともありました。私の中では、そのときすでに、卒業後はプロとしてやっていくことを決めていました。すなわち私の就活は、父親の説得だったのです。
当初はもちろん大反対でした。時間を見て実家に戻っては少しずつ話し合いを重ね、最終的にやっと父親から許しをもらうことができました。が、そのときに父親が出した条件があったのです。 「お前は日本のチャンピオンになるのか? 俺はいつも言ってきただろ。なんでもいい。どんなジャンルでもいい。クラスの一番、学校の一番、地域の一番、日本の一番、できるなら世界の一番。お前はダンスで一番になるのか?」と。「なる! なって見せる!」「なら許してやる。一番になるよう頑張れ!」。そのときから私のプロとしての道のりが始まったのです。
1988年に8カ月に及ぶ英国留学を終え帰国。すぐに西部日本ダンス選手権で念願の西部チャンピオンとなり、嬉しいことに翌月のダンス雑誌の表紙を飾らせていただいたのですが、父は広島の書店という書店を回って雑誌を買い漁り、周囲に配って自慢してくれていたそうなのです。後に母親からその話を聞いて、ますます頑張ろうと思ったこともはっきりと覚えています。
翌年1989年の全英選手権プロライジングで初ファイナル第5位に入賞し、第10回日本インターナショナルでも初ファイナル第4位の成績を収めることができたのです。その年と翌年1990年の全日本10ダンス選手権を連覇し、日本のトップダンサーの仲間入りを果たすことができたのですが、チャンスがあれば遠路はるばる競技会場に足を運び、応援をしてくれていたものです。
そしていよいよ日本のトップに差し迫った頃、父親の容体はだんだんと悪くなっていったのです。「何か黒いものが飛んでいる……」から始まり、記憶がままならない状況に陥ってしまったときに、判明したのは脳腫瘍。そのときはすでに手の施しようがない状態だったのです。
そんな状況でも、私はただ前を向いて突っ走るしかありませんでした。1991年に全英ライジングスター優勝、1992年に全英初ファイナル入り。1993年の日本インター優勝……。しかし一番喜んでくれるはずの父親は病院で寝たきりの状態。父親の応援、家族の理解に甘えて、私はただ突っ走っていました。
そしてチャンピオンの報告ができたその月の6月27日。父親は帰らぬ人となりました。享年63歳でした。
ダンスに人生を賭けて皆が頑張っています。環境も状況も違うことでしょう。目標達成した人も、道半ばの人も、まだまだ遠く及ばない人もいるでしょう。でも皆、前を向いて進んで行かねばならないのです。しかしそれは、家族や友人、生徒の皆さんに助けられて進めているのです。
法要を終えてその足で父の眠るお墓に参り、手を合わせました。ダンスに携わっていけることに感謝しながら。
(月刊ダンスビュウ2025年9月号掲載)